【3分でわかる】カンボジアの歴史をわかりやすく年表にまとめてみた

アジア史

やっべ、カンボジアの歴史長すぎだろ・・

 

カンボジアの歴史を見て、そんなこと考えていませんか??

なんと、wikipediaのカンボジアの歴史は8000文字・・

カンボジアの歴史はとても面白いのに、文章的には長すぎるんですよね・・

 

そんな人向けに、

今回は、カンボジアの歴史を3分でわかるように年表を使ってまとめました!!
このブログを読めば、カンボジアの歴史の大枠を簡単に理解できるようになると思います!!

 
今回の記事でわかること

・3分でわかるカンボジアの歴史

 

2世紀から今までのカンボジアの歴史について、わかりやすく簡単に年表にまとめてみました。

カンボジアの歴史は以下のように大別することができます。

  1. 先史期
  2. 前アンコール期
  3. アンコール期(802~1431)
  4. 後アンコール期(1431~1863)
  5. フランス植民地期(1863~1953)
  6. ポルポト政権時代

今回は、1~6を順番に年表でご紹介します!!

 

今から約40年前、ポルポト政権時代にカンボジアでは粛清と虐殺の嵐が吹き荒れ、人口の約1/4にあたる200万人が命を落としました。

一方で12世紀にはアンコール朝が最盛期を迎え、今でも世界中の人が集まるアンコールワットを立てるなど明るい歴史もあります。

どんな歴史でも明るい過去と暗い過去 両方持つものですが、その両方が今ではカンボジアの大きな観光資源として成立しているのまた事実。

両方の歴史を知っているからこそ、本当のカンボジアを直視することができると思いますので、わかりやすく簡単にまとめたブログですが最後まで読んでいってください!!

 

カンボジアの歴史をわかりやすく年表にまとめてみた

先史期

・紀元前3000年 狩猟採集や漁業、浮稲作などを営む

紀元前3000年ごろから、狩猟採集や漁業、浮稲作などを営んでいました。

さらに、千年後には金属器制作技術を習得し、紀元前500年前後からは、鉄器やガラスなどを生産するようになりました。

 

前アンコール期

・2世紀 扶南(ふなん)成立

扶南(ふなん)はカンボジア南部に建設された王国であり、インド人商人を介した多くのインド文化を享受しました。

ベトナム南部アンザンにあるオケオ遺跡からは当時の宗教的建造物やローマ金貨などかつての交易をうかがわせるようなものが多く出土しました。

 

・5.6世紀 真臘(しんろう)成立

真臘(しんろう)は8世紀ごろに河川を掌握した水真臘と陸路を抑えていた陸真臘に分かれたが、それらを統一したのが後で紹介するアンコール朝であります。

扶南同様に交易を通して栄えた文明でありました。

 

アンコール期(クメール王朝)(802~1431)

・802年 ジャヤヴェルマン2世 アンコール朝を創設

ジャヤヴェルマン二世は即位後、アンコール朝を創設します。

802年にプノム・クレンにて自らを「世界の王」であると宣言しました。

これをもってアンコール期の始まりだと考えられています。

 

・12世紀 スールヤバルマン2世 アンコールワットを建立

アンコールワットは、カンボジアの首都プノンペンの北西にあるシエムリアップ市の郊外にある遺跡群の一つです。

1860 年にフランスの博物学者アンリ・ムオにより発見されました。

この、アンコールワット周辺の巨大な都市遺跡は、9~12 世紀のクメール王国の歴代の王によって築かれました

アンコール遺跡群の中で最大の遺跡であるアンコールワットはクメール芸術の最高傑作とされた都城に付属したヒンドゥー教寺院として、スールヤヴァルマン 2 世によって1113年から30年の歳月をかけて建立されました。

ヒンドゥー教では神「ブラフマー」「ヴィシュヌ」「シヴァ」がでてくるが、このアンコールワットでは維持神である「ヴィシュヌ」を祀っています。

 

後アンコール期(1431~1863)

・18世紀シャム(タイ)とベトナムの侵略により属国になる

1775年の段階で、クメール人の領土はアンコール王朝時代の3分の1になってしまいました。

アンコール王朝が否応なく弱体化してしまった原因は、王位継承問題王宮内の陰謀、王族同士の絶え間ない争い、そして、シャム(タイ)とベトナムという2つの民族の侵略です。

これらが原因となってフランスの植民地化につながってきます。

 

フランス植民地期(1863~1953)

・19世紀 フランスの植民地になる

シャムとベトナムの二重支配をうけていました

これもすべて、王家の内紛などによる国内情勢の不安定さに由来するものです。

これらを解消するために、1853年にアンドゥオン王は当時、アジアに進出していたフランスに接近を試みます。

フランスの庇護を受けたかったんですね

フランスは19世紀海外進出に伴う植民地形成を推進していました。

その当時、メコン川を利用した中国との交易を目論んでいたフランスにとってカンボジアを抑えることは大きな利益を見込めると考えたためカンボジアをフランスの保護国としカンボジアの情勢が安定します。

 

・19世紀 第二次世界大戦でフランスがドイツに敗れ、日本軍に占領される

太平洋戦争

フランスによってカンボジアは安定しましたが、第二次世界大戦でその歯車が狂ってきます。。。。

1940年にフランスがドイツに破られると親独体制はパリではなくフランス中部の都市ヴィシーに樹立されました。

ドイツはこの政権にフランスの植民地の管理を一任していました。

一方で、日本は日中戦争の拡大により軍需が拡大したため原料の供給地として東南アジアに目を付けその足掛かりとしてフランス領インドシナに目を付けます。

そして、当時の親独政権との協定を基にし、日本軍はカンボジアに進駐し植民地としました。

 

・19世紀 世界大戦後フランスの占領が再スタート

しかし、日本軍が連合国に降伏したため独立は取り消されフランスの支配が再度始まります。

その後、交渉により暫定自治を獲得することはできたが部分的な自治権しか得られず真の独立とは程遠いものでした。

 

・1953年 シハヌークによりフランスから、完全独立を達成

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カンボジアの王シハヌークは1953年に王の十字運動と称して合法的にクーデターを起こし全権を掌握しフランスとの交渉に臨み独立を獲得します。

シハヌークは東西陣営の中立政策を貫くことにより国を発展させようとしました。

地理的に近い中国からは、紡績や製紙、ガラスの工場を建設し、チェコスロバキアの援助で火力発電所や自動車タイヤ工場を建設します。

一方でフランスの援助によりプノンペン空港やシハヌークビル港が整備され、アメリカの援助でプノンペンと港を繋ぐ幹線道路の整備を行いました。

日本は、農業技術や畜産、医療の設立に寄与しました。

これらの中立的な政策は東西陣営の対立を象徴するベトナム戦争(1955~1975)の戦火をかぶらずに平和を維持するという点では現実的な方法であったのです。

 

ポルポト政権時代

・1970年 親米ロン・ノルによるクーデーターでロン・ノル政権誕生

シハヌーク王による独裁政治や政治には媚びる縁故主義は国民の不評を買うことになります。

中国を習った経済政策の失敗は国の財政悪化を招き右派の膨張を許す結果となります。

1970年 右派のロン・ノル将軍の無血クーデターでシハヌークはカンボジアから追い出され親米政権が誕生し、カンボジアはクメール共和国となります。

 

・1973年 シハヌークとポル・ポトにより、ロンルノ政権倒し、民主カンプチア成立

ポルポト

シハヌークはポルポトが率いるクメール・ルージュと結託しロン・ノル政権を打倒し1995年にカンボジア全土が実効支配される前に打ち負かすこと成功しました。

 

・1975年 ポルポト率いるクメール・ルージュがプノンペンへ侵攻

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1973年にはロン・ルノが支配するプノンペンに対して攻撃を始めます。

その年の半ばからアメリカの爆撃が中止された、その時点でクメールルージュは国土の2/3を掌握しており1975年にクメールルージュによってプノンペンは制圧されました。

ポルポトは全国に一律に農家の収穫高の目標を定めます。

その目標自体は非現実的なものではありませんでしたが、農耕器具や大量の化学肥料の不足により土地がやせ細り飢饉など悪循環を生みます。

ポルポトは化学肥料の代わりに人糞やコウモリの糞石などを使うことを推奨したがこれらの肥料で規定の収穫高を達成することは不可能でした。

農業振興のために土木分野の専門的知識もない、若い男性をダムや水路の建設に駆り出し、何度の試行錯誤によって得た実践的な知識によって建設が進みます。

それゆえ、建設したダムは何度も崩壊し、三回目の挑戦によって持ちこたえるレベルのものを作り上げることができた。

しかし、ダムや水路を建設したところで全く農作物の収穫高は増えなかった、これについてはいくつかの理由が考察されているが主に

  1. 若い労働力が工事に駆り出され農業をする労働力(有効労働力)が少なくなったこと
  2. 労働意欲の欠落

1については直観的に理解することができるが、2についてはどういうことであろうか。

社会主義国家では全てが無償で労働しなければならないと考えている人も多いと思うが、必ずしもそうではなく毛沢東時代でも今の北朝鮮でもわずかながら賃金は支払われていました。

しかし、クメールルージュの下ではそうではありません。

当時の農業や土木作業は無償で行うものでした。

つまり、

労働意欲が欠落してたわけ

奴隷は自由な人間ほど働かない!!

 

・1979年 新政権が誕生

ポルポトの行った粛清や無理な農業計画、ベトナムとの国境紛争などにより徐々に力を失い1979年に元東部管区幹部ロン・ルノらがベトナムと結託しプノンペンに入り新政権を樹立します。

ポルポトはタイの国境に逃げました。

 

カンボジアの歴史に興味を持っているなら・・

【3分でわかる】カンボジアの歴史をわかりやすく年表にまとめてみた 

でした!!

カンボジアは歴史ある国で、他の国に比べ大変ですがそのぶん、奥も深い国です。

このブログを読んで

もうちょい、カンボジアの歴史を勉強してみたいなー

と思っていましたら、こちらのブログでカンボジアの歴史を勉強する上で欠かせない本を紹介しています!

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ポルポト政権に興味があるなら

また、

本ではなくともポルポトについてもっと知りたい!!

とおもっていましたら、

こちらのブログでポルポト政権についてじっくりと書いていますので、ぜひ読んでみてください!!

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