【カンボジア・歴史】ポルポト政権の大量虐殺はなぜ起こったのか?

ポルポト カンボジア歴史アジア史

今から約40年前、カンボジアでは粛清と虐殺の嵐が吹き荒れ、人口の約1/4にあたる200万人が命を落としました。

カンボジア悲しい歴史についてまとめました。

今回は、200万人が命をとしたポルポト政権による統治の歴史を振り返ります。

ポルポト政権の大量虐殺はなぜ起こったのか??

 
今回の記事でわかること

・ポルポト、クメールルージュとは?

・ポルポト政権はどんなもんだったか

・ポルポト政権はなぜ虐殺に走ったのか

 

カンボジアの歴史全体を理解したい人は、【3分でわかる】カンボジアの歴史をわかりやすく年表にまとめてみた を参照してください!!

当然のことですが、やはりブログよりも本のほうが緻密ですし、より詳細にポルポトという人物を知ることができると思います。

レポートを書くにあたっては絶対に読んでほしい本です!!

ポルポトを知りたい人は少し分厚い本ですが必ず読んでほしい。買って、時間をかけて絶対に損しないおすすめの本。

ぜひ読んでみてください!!

【カンボジア・歴史】ポルポト政権の大量虐殺はなぜ起こったのか

登場人物

シハヌーク:1941年に就任したカンボジアの王

ポルポト:1970年代にカンボジアを支配した。原始的な共産主義を追求した。

年表

ポルポトが生きた時代のことを年表にまとめました。

簡単にまとめたので、年表で大雑把なことを把握してくれたらうれしいです!!

 
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シハヌーク王による統治 戦争からポルポト支配まで

当時のカンボジアの王であったシハヌークは東西陣営の中立政策を貫くことにより国を発展させようとした。

地理的に近い中国からは、紡績や製紙、ガラスの工場を建設し、チェコスロバキアの援助で火力発電所や自動車タイヤ工場を建設した。

一方でフランスの援助によりプノンペン空港やシハヌークビル港が整備され、アメリカの援助でプノンペンと港を繋ぐ幹線道路の整備を行った。

日本は、農業技術や畜産、医療の設立に寄与した。

これらの中立的な政策は東西陣営の対立を象徴するベトナム戦争(1955~1975)の戦火をかぶらずに平和を維持するという点では現実的な方法であった。

しかし、シハヌーク王による独裁政治や政治には媚びる縁故主義は国民の不評を買った。

中国を習った経済政策の失敗は国の財政悪化を招き右派の膨張を許す結果となった。

1970年 右派のロン・ノル将軍の無血クーデターで親米政権が誕生し、カンボジアは「クメール共和国」となった。

一方、シハヌークはポルポトが率いるクメール・ルージュと結託しロン・ノル政権を打倒し、カンボジア全土が実効支配される前に打ち負かすこと成功した。

 

ポルポト政権によるカンボジア支配 悲しい歴史の始まり

その後に成立したのがポルポトによる独裁政権である。

ここからは、一度1970年から1975年までのクメールルージュについて言及していこう。

ポルポトはシハヌークの求心力を利用し当時、個人主義傾向が強いと考えられていたカンボジア国民を結束させた。

  1. 農業の振興
  2. 少数民族への同化政策
  3. 原始的な農民階級の社会
 

農業の振興

当時のカンボジアは食糧危機に悩まされていた。

都市部の住人はアメリカなどからの食料支援により食糧を確保することができていたが、地方では飢餓で苦しむ人が多く、また近代化が進んでいないために市場経済や貨幣制度が浸透していなかった。

そのため、農業の振興に力を入れた

クメールルージュは農民の支持を得るために農民を慎重に扱った。

農作物の収穫や脱穀の時期には幹部を送り農民の手伝いをさせた。

また、農民が病気にかかると薬や注射を打たせるなどをした。

クメールルージュによる新たな体制は飲酒を控えることや賭け事、婚外交渉の禁止などいくつかは農民の自由を縛るものであったが、汚職など腐敗していた前の体制に比べればはるかにましであり受け入れられていた。

1971年の終わりまでにはクメールルージュの拘置所に囚人はわずかしかおらず、アメリカの国防情報局でさえクメールルージュ体制を農民目線で比較的に肯定的に評価していた

 

少数民族への同化政策

まず初めに行われたのが、カンボジアの少数民族のチャム族に対しての同化政策であった。

伝統的な鮮やかな服が禁じられ、貧しいクメール人と同じ黒い農民服を着ることを強制された。

夏には裕福な農民が所有する土地を貧しい家庭に分配し各家庭の土地面積を統一した。

 

原始的な農民階級の社会

また各家庭が所有する原動機付の乗り物全てに税金をかした。

これらの施策はクメールルージュの主な支持母体である貧困層と中流層以下の農民にとっては利するものであり権力基盤の強化につながった。

1972年以降のクメールルージュの政策の最大の目標は下界から汚されていない真の意味での原始的な農民階級の社会を作り出すことであった。

国民をすべて貧農に押し込み集団主義国家の建設の大きな障害である「個」の破壊である。国民は、「批判と自己批判」、単純労働、共産党のテキストの学習を課せられた。

「批判と自己批判」は週に数回集まって自らの嗜好や行動の過ちを順番に告白し、参加者に心の中を覗き込ませ個人的なことや私的なことをすべてこしとり同士の前にさらけ出すものである。人間の側面的なものを無視しクメールルージュこそが全ての関係に成り代わるという革命であった。

 
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都市部から地方部への人口の大移動~虐殺のきっかけ~

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東カンボジアに逃げた社会主義国家を標榜する北ベトナム軍へのアメリカ軍による爆撃が1973年に始まると、クメールルージュは爆撃を避けるという名目のもとで村を新たな場所に根こそぎ移動させた。

これは地方の人口密度の上昇につながり飢餓につながった。

1973年にはロン・ルノが支配するプノンペンに対して攻撃を始めた。

その年の半ばからアメリカの爆撃が中止された、その時点でクメールルージュは国土の2/3を掌握しており1975年にクメールルージュによってプノンペンは制圧された。

プノンペンを占領したクメールルージュの若い兵隊たちは多くが地方出身であり、とても奇妙な行動をしたと言われている

彼らは水道や電気のない場所で暮らしていたため、彼らは便器を井戸だと勘違いし、そこから水を飲んだ。

彼らは宝石や現金を望まず一万ドルを見つけた際にも帝国主義の汚物に汚れたくないというように川に捨てた。

彼らは車やバイクを望みギアやハンドルの意味も知らないままに使用し笑いながら何度も壁にぶつかった。

衝突して置き去りになったバイクのタイヤをはぎ取り自らのサンダルにする者もいた。

若い兵は貧しい自分たちを見捨て裕福な暮らしをしていた都市部の人に対する怒りが渦巻いていた。

占領された直後に都市部の住人約250万人は待機場所も医療ケアも政府による移動手段もなしに食べ物もほとんど持たない状況で首都からの退去を強制された。

このときにクメールルージュはアメリカ軍からの爆撃があるから「2,3日だけ」退去するように住民に告げたが、本当の目的はブルジョア階級の人々を貧農という形に押し込めるためであった。

病気や障害を抱える者も等しく、首都から離れるように指示され道端には疲れ果てて餓死したものの死体が散乱したという

列を外れたものには厳罰を下され銃で脅されたものもいた。

しかし、このような、恐怖と残虐性で人を動かすクメールルージュもいたが、そうでないものもいた。

困っているものに対して手を伸ばし、食糧を分け与える者もいた。同じクメールルージュでも行動に格差があった。

逆にこの統一していない対応は、統治の不十分さを明らかにするものであり今後の残虐性を生み出す一つの要因でもあった。

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なぜ、ポルポト政権下で多くの人が亡くなったのか

ポルポトのカンボジア政策~飢餓による大量死~

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ポルポトは全国に一律に農家の収穫高の目標を定めた。

その目標自体は非現実的なものではなかったが、農耕器具や大量の化学肥料の不足により土地がやせ細り飢饉など悪循環を生んだ

ポルポトは化学肥料の代わりに人糞やコウモリの糞石などを使うことを推奨したがこれらの肥料で規定の収穫高を達成することは不可能であった。

農業振興のために若い男性をダムや水路の建設に駆り出した。

彼らは土木分野の専門的知識もなく、何度もの試行錯誤によって得た実践的な知識によって建設が進んだ。

建設したダムは何度も崩壊し、三回目の挑戦によって持ちこたえるレベルのものを作り上げることができた。

しかし、ダムや水路を建設したところで全く農作物の収穫高は増えなかった、これについてはいくつかの理由が考察されているが主に①若い労働力が工事に駆り出され農業をする労働力(有効労働力)が少なくなったこと ②労働意欲の欠落である

①については直観的に理解することができるが、②についてはどういうことであろうか。

社会主義国家では全てが無償で労働しなければならないと考えている人も多いと思うが、必ずしもそうではなく毛沢東時代でも今の北朝鮮でもわずかながら賃金は支払われていた。

しかし、クメールルージュの下ではそうではなかった。

当時の農業や土木作業は無償で行うものであった。

つまり、奴隷のようなものである。奴隷は自由な人間ほど働かないのである。これについては中国の経験は示唆的である。

集団で農業を営む代わりに小作農自身に作物を育てる責任と報酬を認める「生産責任制」を鄧小平が導入すると収穫高は4割も跳ね上がった。

どんなに目標を与え、暴力で支配しようと最終の生産高を決める無数の変数(育てる時期、苗の植え方、天候不順への対応など)までは実際、強制できないのである。

また、同時に通貨の停止も決めた。

通貨は私有財産を築くことの動機となり破壊したはずのプロレタリアとブルジョワジーを再度生み出すことを意味するからである。

 

S21による政治犯の虐殺

政治権力保護のためにポルポトはS21と呼ばれる政治犯尋問センターを作った。

ポルポトの側近はじめクメールルージュに長年貢献してきたものが政治犯として、裏切り者として殺された。

誤解されがちであるが、ここは尋問エンターであって処刑場ではない

しかし、延べ二万人もの老若男女が収容され生き残ったのはたった七人であった

多くはぬれぎぬを着せられここで殺された。

S21は中央が管理するものであったが、地方のコミュニティーの中でも頻繁に人が消された。農民幹部はこどもの薫製を呪術的なお守りとしていた。

また囚人の腹から胆嚢を取り出し薬に利用し、肝臓は殺した後食べていた。

S21では、そこにつとめる尋問官も殺されるケースがあったそうだ。

その理由が、自白が引き出せてないからという理由だだ。

多くの収容者は「CAIのスパイである」「西側諸国のスパイ」であるという濡れ衣を着せられて処刑されましたが、この自白を引き出せない尋問官も処刑されていた。

この仲間を処刑することも気にしない組織性が残虐性を生んだと考えられている。

 

死ぬ前に取ったポルポトのインタビューです。

動画を見る限りでは、普通のおじいちゃんのような気がしてきます・・

 
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ポルポトの死

ポルポトの行った粛清や無理な農業計画、ベトナムとの国境紛争などにより徐々に力を失い1979年に元東部管区幹部らがベトナムと結託しプノンペンに入り新政権を樹立し、ポルポトはタイの国境に逃げた。

ポルポトはその後、結婚し子供を授け1997年につかまり終身刑を受けたが翌年に亡くなった。

死因心不全であった。

彼はゴミと車のタイヤの上で火葬されたが、彼の統治期間に亡くなった200万人と比較するとはるかに穏やかな死であった。

  

【カンボジアの歴史】ポルポトの大量虐殺 まとめ

ポルポト政権が生んだカンボジアの悲しい歴史についてまとめました。

カンボジアでなぜ、残虐な出来事が起こってしまったのか理解していただけたら幸いです。

ポルポトをもっと知りたい人は少し分厚い本ですが必ず読んでほしい。買って、時間をかけて絶対に損しないおすすめの本。

ぜひ読んでみてください!!

カンボジアの歴史全体を理解したい人は、【3分でわかる】カンボジアの歴史をわかりやすく年表にまとめてみた を参照してください!!

今回、このブログを書くにあたって参考にした本は他のブログにまとめました。

出典

上記のブログの上三つの本を参考にしてまとめました!!

カンボジア渡航の様子はこちら!!

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