【詳しく】第二次世界大戦下の日本軍とミャンマー・ビルマの歴史

アジア史

このブログでは、ミャンマーの第二次世界大戦下での歴史をご紹介します!!

 

太平洋戦争下で、日本軍によるミャンマー統治の功罪について、わかりやすく簡単にまとめました!

このブログを書くにあたって、この本を参考にしました!

とても興味深い本ですので時間に余裕がある方がいらしましたら読んでみることをお勧めします!!

 
今回の記事でわかること

・第二次世界大戦下のミャンマー

・ビルマがどのようにして日本軍とたたかったのか

日中戦争の始まり

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1937年 盧溝橋事件を機に日中戦争が始まった。

日本軍の中国大陸への進行が進んだことで中国国民政府(蒋介石政権)は首都を南京から武漢へと、そして重慶に移し徹底抗戦を続けた。

英米は中国国民政府を支援するために英領ビルマと中国が陸続きであることを利用してラングーン-マンダレー-昆明-重慶へと続く道を整備し物資輸送を行った。

これは、中国へと物資を輸送するための援蒋ルート(蒋介石を援助するルート)の一つの経路である。

援蒋ルートには4つの種類が存在する。

・当時イギリスが支配していた香港を経由するルート

・フランスが支配していたベトナム・ハノイを経由するルート

・ソ連からのルート

・ビルマを通って輸送するルート

この援蒋ルートは中国に侵攻する日本にとって不都合なものであったため、これを封鎖するために日本軍はビルマナショナリストに注目するようになる。

ビルマナショナリズムとは、管区ビルマに住むビルマ民族を書くとしてミャンマーを国民国家としてイギリスから独立しようという運動です。

ビルマナショナリストの趨勢

ビルマナショナリストについて詳しく知りたい人はこちらをどうぞ!!

タキン党は1930年末期に戦略の立て直しの一環で「自由ブロック」という大衆反英組織を結成した。その組織の書記長としてアウンサンが就任した。

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彼らは、「英国の危機はビルマの好機」を標榜し、英国植民地支配体制の不当性を強く批判し英国からの独立を達成しようとした。

しかし、当時の政権により自由ブロック関係者の多くが逮捕されてしまう。

運よく逮捕から免れたアウンサンは海外の支援を手繰り寄せるために中国共産党、中国国民党に接触したが期待していた反応は得られなかった。

逆に、中国で日本軍につかまり日本へと送還されることになる。

送還先の東京では日本軍の鈴木敬司大佐に日本軍と組むように説き伏せられ1941年に南機関というビルマ謀略機関を設置することになった。

この南機関の目的は、反英ナショナリストを支援し、ビルマに親日政権を樹立し援蒋ルートを断つことにあった。

南機関の設立にあたってアウンサンはタキン党員を中心に青年を集め、日本軍とともに中国の海南島で訓練を行った。

この時集まった30人の青年は後に「30人の志士」と呼ばれる。鈴木大佐はビルマでの謀略のために、30人の青年とともに「ビルマ独立義勇軍(BIA)」を設立する。

1942年1月に日本軍はビルマに侵攻する。

1942年3月から始まった北伐戦とよばれるビルマ中部の英印軍への攻撃では、日本軍は破竹の勢いで進軍していった。

北伐戦によって日本軍が侵攻し、英軍が後退してできた権力の空白地にはBIAが積極的にビルマ人行政組織を立ち上げ曲がりなりにも自分たちで統治をおこなおうとした。

1943年当初の約束通り日本はビルマに独立を付与することを決定した。

国家元首には反英政治家で日本軍侵攻前に拘留されていた人物を抜擢した。

首相の周りを囲む大臣などは旧自由ブロックに連なる政治家を選んだ。

この独立は海外の諸外国からも好意的に受け止められ枢軸国や中立国から国家承認を受けた。

枢軸国:ドイツ、日本、イタリア、フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、タイ

連合国:アメリカ、イギリス、フランス、中華民国、ビルマなどの植民地下の国

独立したビルマは、憲法に当たる「ビルマ国家基本法」を定めたが、独立と同時に締結させられた「日本国緬甸国(ビルマ国)軍事秘密協定」によりビルマの主権は制限され日本軍の駐留も認めなければならなかった。

ビルマにおける日本の軍政は廃止されたが、日本軍下に組織されたビルマ防衛軍はビルマ国軍に改称された。

日本のビルマ占領期

ビルマ占領期でビルマの人が受けた最大の被害は泰緬鉄道建設工事だといえる。

この鉄道はタイからビルマを結びそこで物資を輸送しようという日本軍の計画であった。

険しい山間を結ぶこの鉄道建設は捕虜を含む10万人以上の犠牲者を出しながら1年4か月で完成させている。

ビルマの国家元首バモオ博士は日本軍に命じられ地方部から10万人以上を動員したが、そのうち3万人が亡くなった。

1943年10月に、鉄道は建設されたはものの、険しい山間を結んだためカーブが多く時速10kmしか出せずのろのろ運転するしかなかった。

戦後のビルマでは、「枕木一本につき一人亡くなった」と言われ、無謀な鉄道工事の悲惨さは今なお引き継がれている。

泰緬鉄道について詳しく解説したブログはこちらからどうぞ!!

抗日武装蜂起

1944年以降ビルマ奪還のため攻勢を強める英米などの連合軍との戦闘で劣勢を強いられることになる。

当時、国防大臣であったアウンサンはひそかに地下抗日組織を結成し抗日への準備を進め「反ファシスト自由連盟」を設立した。

抗日へと動いた背景にはこれ以上、日本軍に協力しても独立を達成できないという判断があった。

1945年3月についに蜂起し、日本軍へと攻撃を開始した。

同年6月には英国軍と正式に同盟を結んだことで、共闘が決まり、名称を「愛国ビルマPBF」と名称を変更し日本軍が降伏する8月中旬まで戦った。

日本軍は結局、ビルマ戦線に32万人を超える将兵を送ったが、そのうち日本に戻ることができたのは13万人に過ぎなかった。

およそ、19万人の将兵が戦死、病死として犠牲になった。

まとめ

以上、第二次世界大戦下のビルマでした。

第二次世界大戦の日本統治下での影響は、戦後にも大きな影響を与えます。

今回のブログでは収まりきらない感じなので次回のブログで詳しく紹介していきます!!!

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