こんにちは! たかしです
今回はいつもと違って、フィリピンの歴史についてまとめました!!
海外の博物館はとても魅力的な場所です。いつも、その国に到着してから最初に訪れる場所は博物館なのですが、やはりどうしても英語の解説をすべて読んで咀嚼して整理するのは難しい…… ということで、今回はフィリピンの観光地と歴史を繋ぎ合わせるブログを書いてみました。たぶん、これさえ理解できれば楽しめるはず……
フィリピンのナショナリズムとして持ち出されるのは、スペイン統治下でのキリスト教とアメリカ統治下での英語であります。
特にアメリカ統治下での英語の普及は、今のフィリピン人の外国での就労の機会に大きく貢献し、今でも人口の約1割もの人が海外で働いているらしい。
また、日本人の海外留学でもフィリピンは使われることが多く、毎年6800人程の留学生がいるそうだ。
密接につながった、フィリピンと日本の関係であるが、生まれてから今までフィリピンの歴史を振り返ったことは多くの人にとってないでしょう。無論、私もその一人でありました。本稿では、フィリピン全土に点在する遺跡、慰霊碑、文化を感じてほしいという思いから1500~1950年ほどの歴史と観光地をつなげてまとめさせていただきました。
ブログの更新日の一日前の8月15日は終戦記念日である。大戦でフィリピンは民間人が100万人以上もの犠牲者を出した。日本が受けた戦争被害だけに着目するべきではなく、日本が与えた被害も同時に理解すべきことであり、自分の勉強の一貫としてフィリピンという国を第一に選んだ。今回のブログでは詳細に記載はできていないので、大まかな歴史をまとめました。すごい詳細な流れはwikiでも本でも多くの情報が載っているので読んでみるといいとおもいます。(まだまだ、僕も知識不足で勉強をしなければならないと思いました。)
(敬体と常体がぐっちゃぐちゃだと思った方へ、常体の方が書きやすいし、かといって常体つかいすぎると上から目線すぎるし…… でも、常体で書かせていただきます笑)←ここ大事 笑
スペイン統治下
スペイン統治以前は古代文明などの社会体制はフィリピンに存在していなかった。タガログ、セブアノなどの200近い少数部族が存在し、各々の帰属意識はその部族に由来し、部族を超えた超部族的帰属意識は存在しなかった。大航海時代のポルトガルの航海者、探検家であり、スペインの艦隊を率いたマゼランは、1521年にフィリピン諸島にたどり着き、これが、フィリピンの有史の歴史の幕開けである。
1494年にスペインとポルトガルが結んだトルデシーリャス条約では、ブラジルを除く新大陸(インディアス)をスペイン領有とし、1529年のサラゴサ条約で太平洋横断によって到達できるフィリピン諸島をスペイン領有とした。1565年に初代総督になるレガスピが諸島中部セブ島を領有したのを皮切りに19世紀末までスペインのフィリピン支配が始まり、スペインは徐々にフィリピン内の島を占領し植民地の範囲を広げた。1571年には地域間交易の中心地でもあるマニラ市を設置して植民地首府とし、フィリピン諸島の大部分が征服され、スペインの領土となった。同時期にはフィリピンからメキシコのアカプルコ経由でスペインに至る航路が発見され、約250年間にわたって開かれたマニラ・ガレオン貿易はフィリピンの生命線となった。マニラ・ガレオン貿易では、中国の絹、生糸、陶磁器などのアジア物産をメキシコへ中継輸出する見返りに、新大陸の銀を輸出し関税収入を得ることに成功した。これこそ、フィリピンを豊かにした中継貿易である。
スペインによるフィリピンの支配はとてもユニークな物であった。教会による統治と密接不可分なものであり、新発見の土地への福音伝道という使命が支配の正当性の原理とされた。被征服民であるネイティブ(原住民)に対しては、彼らの意図などおかまいなしに、洗礼を受けることはスペイン王国に対しての服従とみなした。セブに本拠地を置いた初代総督レガスピは、すぐに現地の首長とその配下に洗礼を受けさせた。
支配したはいいものの、残念ながら、スペイン人の期待に応えるような資源である鉱山や、香辛料は存在しなかった。さらに、ポルトガルやオランダが周辺海域に出現し、南部のミンダナオ島などのイスラーム王国の襲撃もあり、その防備にお金がかさんだため、植民地放棄がとりざたされたが、結局19世紀にいたるまでキリスト教の普及のためにフィリピンを植民地支配し続けた。
スペイン統治下の関係のある観光地
マゼラン・クロス(セブ市内)
マゼランが、1521年に建てたといわれる木製の十字架。フマボン王とファナ王女、400人の臣下が、フィリピンで初めてキリスト教の洗礼を受けたといわれる場所に保管・展示されている。破片を飲むと病に効くと信じられ、少しづつ削り取られていった為、保護する為に八角堂が建てられ、十字架の上から木製のカバーが付けられているため、本物の十字架を見ることはできない。
イントラムロス(マニラ市内)
イントラムロスは1606年に完成され、フィリピンがスペインの植民地であったとき、スペイン人の政治、軍事、宗教の中心地として機能した。スペイン統治時代には大学や病院、12の教会が点在したがアメリカの統治や第二次世界大戦中の日本の統治によって多くが壊れてしまったが、今でもサン・オウガスチン教会やカーサ・マニラ博物館が残っており、スペイン統治時代の歴史を覗くことができる場所である。
サン・オウガスチン教会(マニラ市内)
1599~1606年に建てられた、フィリピン石造建築のなかで最も古い教会のひとつ。1675年からの7回にわたる地震や第2次世界大戦の爆撃にも耐え、建設時のまま残っている。教会内はバロック風のインテリアで、パリから取り寄せられたシャンデリア、イタリア人アーティストによる趣向を凝らした壁画や祭壇を見ることができる。祭壇左にはスペイン人の初代総督レガスピが眠っている礼拝堂もある。
カーサ・マニラ博物館(マニラ市内)
1981年、イメルダ・マルコスによってイントラムロスの中心地に建てられた。キッチンには、当時、使われていた調理器具や18 世紀のお菓子の型や薪のオーブンを展示している。リビングルームには、中国製、ヨーロッパ製、フィリピン製など、様々な国と家具が展示されている。博物館全体にはアンティークの調度品や家具がしつらえてある。スペイン統治時代のスペイン人などの特権階級の人々の暮らしぶりをうかがい知ることができる。
キアポ教会(マニラ市内)
1582年にスペイン人によって建立された教会である。聖堂にブラックナザレと呼ばれる等身大の黒いキリスト像が祀られていることで知られる。毎年1月9日のブラックナザレには人々を癒す奇跡の力があると信じられているため、フィリピン全土から多くのカトリック教徒が集まり祈りを捧げ十字架と聖像が山車に乗せられて街を練り歩く聖地となっている。建築当初は竹とニッパヤシで作られていたが、度重なる火災により建て替えられて現在は石造りになっている。
アメリカ統治下
フィリピン革命がおこったのが1898年6月12日である。この日は独立記念日として今でも語り継がれている。このフィリピン革命によって、スペインの植民地支配から脱して独立を短いながらも成し遂げることに成功した。
19世紀後半のフィリピンではスペインの植民地支配に対して、様々な抵抗運動やカトリック教会における人種差別、搾取、言論弾圧改革を求める運動が起きていた。教会の位階制度における人権差別に抗議した、修道会に属しない司祭の運動に始まり、やがてホセ・リサールら知識層による植民地改革運動に発展していった。こうした中、マニラの下町トンドで結成された秘密結社カティプーナンが中心となって義勇軍を組織し各地の指導者に率いられた民衆がゲリラ戦を展開した。指導者は内部の抗争で処刑されてしまうものの、各地で義勇軍は闘争を継続した。翌98年にアメリカがスペインに宣戦布告し、フィリピン革命に参加する。6月にフィリピン独立を宣言しブラカン州マロロスに革命政府を樹立する。99年についにスペインの支配下に置かれていた植民地をすべて解放し、革命政府を樹立した。ところが、アメリカがフィリピンを再度植民地化しようと考えたため、新生共和国とアメリカの対立は避けられず99年2月にフィリピン・アメリカ戦争が開始された。三年ほどゲリラ戦などで抵抗したがアメリカの圧倒的な軍事力の前に敗北し、フィリピンの独立政権の夢は儚く散った。
アメリカの統治下では、フィリピン人だけでは近代的な民主国家は建設できず、アメリカによる近代国家の建設こそがアメリカからの恩恵であると主張し植民地を正当化した。この物語・言説は、フィリピン社会にとって受け入れやすいものであった。フィリピンの地方では、農村に根差した小規模のボスと徹底的に搾取された小作人から構成されていた。そして、この小作人に対して適切な教育を施せば農村の支配から解放され近代的な民主国家の建設ができると考えられたからだ。そのため、アメリカの植民地の歴史と重なる形で1907年に植民地議会を設置アメリカが否決権を持つ形ではあるがフィリピン人による立法を推し進めた。加えて、少数民族の住むルソン島やイスラーム教徒がいるミンダナオ島が植民地政府の管轄地域に編入され、スペイン統治下、短命な独立政権では成しえなかったフィリピンの国家の統一がなされた。しかし、その一方でアメリカがすすめた英語教育はフィリピンの中で大きな格差を生むこととなった。アメリカ人が教える英語の教育を受けられたものは、アメリカに留学したり官僚になるなどして恩恵を受けることができたのであるが、教育を受けられなかった人々、教育を受けたが英語が身につかなかった人々は社会上昇の機会を失ってしまう。1930年代前半になると、フィリピン人エリートはアメリカに対して使節団を送りフィリピンの独立の交渉を始めた。結果、双方が納得する形で合意し、内政はフィリピン政府が、外交や軍事関係はアメリカが担うというものだった。1935年には独立準備政府「コモンウェルス」が発足する。10年後の日本の統治を経て1946年にフィリピン共和国として独立する。
アメリカ統治下の関係のある観光地
アギナルド博物館(マニラ郊外)
独立運動の闘士、エミリオ・アギナルドが1898年6月12日にフィリピン共和国の独立を宣言した私邸を改築した記念館。アギナルドが実際に身に着けた居た衣服や、彼の実際のお墓も展示されている。
日本統治下
日本の独立を語るうえで重要な視点が二つある。
- フィリピンには自治政府を建設するに足りる政治的エリートが存在したこと
- 1946年の独立をアメリカから約束されていたフィリピンに乗って日本のアジア人による白人の支配からの解放はさして魅力的ではなかったということ
だがしかし、1949年に日本軍がフィリピンを武力で占領すると政府要人は中身のない独立話に加担するしかなく国民を守るために日本軍に協力した。こうした事情を踏まえ、1943年に独立準備政府であるコモンウェルスを率いていた政治的エリートを維持する形で名ばかりのフィリピン共和国が建設された。戦後になると、これらの政治エリートが日本に協力をしたことが倫理的な政治論争になった。その代表的な政治家はホセ・ラウレルであったが、1951年の上院選挙ではトップ当選を果たし、日本軍の協力者としての汚名を返上することができた。しかし、一命を取り留めた対日協力者国民裁判にかけられ重罪を受けたものも多かった。恩赦で許された者も、地元民から報復されるケースも目立った。
フィリピンでの日本人戦没者は約78,000人で、その大半が戦闘によってではなく戦争末期のレイテ戦・ルソン戦などで山中に逃走する際に飢餓や病気で亡くなった。生還者の記憶は今も引き継がれており、大岡昇平『野火』などの著書では実際の戦時の山に立てこもる極限状態の地獄模様を描いている。レイテに投入された日本軍は約7万人であるが、アメリカの連合軍に上陸部隊は約26万人であった。この劣勢を取り戻すために日本軍は逐次増員していましたが、ほとんどは海中に沈められてしまい、追いやられた日本軍は特攻攻撃を発動し、連合軍の圧倒的兵力の前に散った。レイテ島の戦いでは、米軍の戦死者は3,500人であったが、日本軍はそれを圧倒的に上回る72,800人であった。フィリピンは戦後(1960年代)一貫して対日感情が最も悪い国であった。戦後のBC級戦争裁判や東京裁判でフィリピンは日本人戦犯を厳しく告発・処罰した。また、サンフランシスコ平和条約ではフィリピン政府の強い要求による賠償条項が盛り込まれた。
関係のある観光地
コレヒドール島
コレヒドール島は1942年の日本の侵攻以前は砲台や兵舎などが置かれていた島である。今では、1944年に撃沈された「戦艦武蔵」をしのんで慰霊碑が建てられている。島全体がゴースト船のような様相でとても興味深い島である。
バターン半島
投降したアメリカ兵7万人を投降したバターン半島の突端からオードネル捕虜収容所までは88kmの徒歩区間があり、捕虜たちに3日間もの40度を超える炎天下の元で過酷な徒歩行が強いられ、与えられた食糧は一日一個のおにぎりであり、一万人近くがマラリアや飢餓で命を落とした。その出『死の行進』の出発地である、マリベレス市内に入る手前には記念碑がおかれ、その脇には、兵士たちの苦難の図が描かれている。バターン半島でのアメリカ軍と日本軍の最後の戦地であるサマット山の山頂には巨大な十字架が掲げられている。(というか山に刺さっとる)山頂にはアメリカ・日本軍が使用したと思われる砲台や兵舎が残されている。壁面には、戦争の迫力ある彫刻が描かれている。フィリピンの中では地理的にアクセスが悪いが毎年4月9日には大統領が出席する式典が開かれ犠牲者を追悼する。
カパス・ナショナル・シュライン
大戦中に捕虜収容施設があった施設に広大な公園が作られ、真ん中には高さ70mほどの塔があり、その周りは大理石の石がおかれそこには犠牲者の名前が刻まれている。近くには馬が10頭入るほどの貨車がおいてあり、戦時中には捕虜が100人ほど詰め込まれたそうだ。
モンテンルパ記念碑・刑務所
マニラ軍事裁判後にニュービリビット刑務所で100人余りの日本人捕虜が収容された。10数人は死刑を執行されたが、残りは1953年の恩赦により日本に帰国することができた。
まとめ
最後にはなりましたがフィリピンの歴史をざーと理解できましたでしょうか?スペイン→一瞬の独立→アメリカ→日本→独立という変化に巻き込まれた国フィリピン。戦後の先人たちの努力により戦争被害を超えてフィリピンと日本は現在、友好関係を築いています。観光する際には、戦跡をめぐってみるとフィリピンのもう一つの側面が見えてくるかもしれません。
すごい、長い文章になってしまいましたが笑、ここまで読んでいただきありがとうございました!!!
最後に、ここの国書いて!などありましたら公式ラインのほうで教えてください!!
参考文献
・小西誠,フィリピン戦跡ガイド,社会批評社,2016年8月1日
・寺見元恵, フィリピンの独立と日本,彩流社,2014年12月1日
・大野拓司・鈴木伸隆・日下渉,フィリピンを知るための64章,明石書店,2016年12月31日
・地球の歩き方 フィリピン,2020年1月1日
・レイナルド・C・イレート,ビセンテ・L・ラファエル,フロロ・C・キプイェン,フィリピン 歴史研究と植民地言説,2004年8月26日
~オススメ度1位~
~オススメ度2位~
~オススメ度3位~
コメント