【詳しく】ミャンマー・ビルマのイギリス植民地時代の歴史をわかりやすく解説

アジア史

このブログでは、ミャンマーのイギリス植民地下での歴史(1824-1948年)をご紹介します!!

イギリスの植民地下だったミャンマーってどんな感じだろう?

と思っていましたら、このブログは最適です!!

 

イギリス植民地になる経緯、統治形態、経済、ビルマナショナリズムの台頭を詳しくまとめて説明していきます!!

 
今回の記事でわかること

・ミャンマー(ビルマ)の植民地化の経緯

・植民地化の統治形態と経済

・独立を目指すビルマナショナリズムの勃興

忍び寄るイギリスの帝国主義

コンパウン朝

ビルマの西のインドでは、1765年ごろからイギリス東インド会社が徴税権を獲得し、植民地化を進めていた。

当時のビルマでは1754年に成立したコンバウン王朝は自国の拡大のために隣国のアラカン王国を攻撃し滅亡させた。

しかし、アラカン朝は当時イギリスの支配下にあったため、ベンガル地方のチッタゴンに難民が流れ込む。

労働力を確保したいビルマの王は人民を連れ戻すためベンガル地方に攻撃を開始した。

これに対してイギリスが危機感を持ったことでイギリスの態度は硬化する。

ビルマ王国はある島の領有をめぐってイギリスと対立し、これが3回に渡る英緬戦争(イギリス-ビルマ戦争)の始まりとなる。

 

第1次イギリス=ビルマ戦争(1824-1826)では、ビルマ軍は近代兵器で武装したインド兵を主力とするイギリス軍に敗れ、ビルマはアッサムやマニプールなどに対する権利を放棄、領土割譲と賠償金を義務づける。

 

第2次イギリス=ビルマ戦争(1851)はラングーン港でのイギリス船の関税支払い問題からイギリス軍が一方的に軍事行動を開始して、ラングーンをはじめとする下ビルマ一帯を占領、イギリス領に編入した。

 

コンバウン朝は、イギリスに対抗するためにフランスと同盟を結ぼうとしたが、その動きを抑えるように1885年、イギリスは軍事行動を開始、この第3次英緬戦争で敗北したコンバウン朝は滅亡、翌年ビルマはイギリス植民地に組み込まれ英領インド帝国に組み込まれることになる。

 

ここに、英領インド帝国ビルマ州が誕生する。

次に、英領でのビルマについて深く理解するために、統治形態経済から考えていきましょう!!

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イギリスによる統治形態

パゴダ(左)と市役所(右)の写真

英国はビルマ州の平野部分を中心とする核心地域の「管区ビルマ」と   山岳地帯からなる「辺境地域」に分けた。

管区ビルマでは英領インド総督が選出した英国人にビルマを統治させる形態をとる。

辺境ビルマでは、もともと藩王たちがそれぞれの小領土を統治していたため、彼らに英国への忠誠を誓わせたうえで彼らに統治させる間接統治性をとることになる。

この、分割統治は管区ビルマと辺境ビルマ同士の交流を阻害し多数派を占めるビルマ民族と少数民族の分断を生んでしまうことにな

 

管区ビルマに関しては、それまでの王朝国家とは大きく異なる国家運営が始まる。

二つの視点で、この国家運営の変動をみていこう。

  1. 伸縮自在な王国としての『空間』→切り分けられた均質な『空間』
  2. 君主制の撤廃と官僚制による統治
 

1. 伸縮自在な王国としての『空間』→切り分けられた均質な『空間』

王朝時代に、各王朝の国境という明確な概念は存在していなかった。

領域の境界線というものではなく、極めてあいまいな『国境』であった。

また、国王の命令さえも、地方の実力者たちとのパワーバランスや王都からの距離などで、不均質に伝わっていく。

イギリス植民地下になると、西洋の近代的な測量技術をもって作成された地図を基に、明確に国境線が定められ首都ラングーンを中心とした中央集権型の統治システムが作られる。

また、王様の勝手な判断で法解釈や決定が覆されないように、「法による支配」を徹底し、法律が異なった文脈で解釈され使用されることを禁じた。

 

2. 君主制の撤廃と官僚制による統治

もしかすると、カンボジアの歴史のブログを読んだ人はこの統治形態に疑問に思うことがあるかもしれません。

カンボジアはフランスの植民地にはならずに「保護国」という立場だった。

アフガニスタンの王国がイギリスと戦争に敗れ1880年、イギリスに外交権を奪われ、その保護国となっている。

しかし、ビルマは保護国ではなく植民地となった。その理由は

  1. 王朝の中に傀儡として利用できる、王子がいなかったこと
  2. ビルマ王国の統治においての権力が弱かったから

などが挙げられる。

これらの理由で、長く続いた君主制は撤廃されミャンマーの社会制度は大きな転換点を迎えることになる。

それでは、英領ビルマでは君主制ではなくどんな制度がひかれたのだろうか??

 

官僚制である。

イギリスの植民地であったインドから、少数精鋭のエリート行政官が派遣され彼らが政府の主要な役職を務める。

時間がたつにつれて、ミャンマー人の行政官も誕生したがほとんどはインド人行政官であった。

こうした外部の人間による統治はビルマ国内で大きな不満の種となり、それがのちの独立運動へとつながっていく。

  

英領ビルマ下での経済

イギリスの植民地下での経済をみていこう。

イギリスがミャンマーの求めたのは、長時間の輸送で腐ってしまう食料などでなく、米や石油、銅などの自然資源だった。

しかし、1869年のスエズ運河開通に伴ってミャンマーからイギリス間の航行距離が劇的に短くなったことで、ヨーロッパ向けの米の輸出は急増する。

米の生産と加工はミャンマーの一大産業となり、米のモノカルチャー経済体制が敷かれた。

米の輸出の急増を支えたのが下ビルマのデルタ地帯である。

下の写真は2008年の米の耕作地域分布の写真であるが、ビルマ南部に集中していることがわかる。

2008年の米の耕作地域分布 (USDAより)
 

法改正などもあって、上ビルマから下ビルマに移住し稲作に励む人も多く現れる。

 

しかし、デルタ地帯特有の降水量の多さや自然環境の過酷さ、マラリア、インド人移民により、農業労働者の賃金は低下し、彼らの生活は年々悪化する。

ペストのワクチンを打つ英国人医師(後にワクチンの効果は否定されています)
 

こうした不満は、植民地政府に向かいそれがビルマ・ナショナリズムへとつながっていく。

次に、ビルマナショナリズムを見ていこう。

 

ビルマナショナリズムの台頭

ビルマナショナリズムとは、管区ビルマに住むビルマ民族を書くとしてミャンマーを国民国家としてイギリスから独立しようという運動です。

この動きはイギリスによる植民地支配が安定してきた1990年ごろから始まるものだった。

ビルマナショナリズムで重要な役割を果たしたのはこの三つの団体である。

 
  1. 仏教青年会(YMBA)
  2. ビルマ人団体総評議会(GCBA)
  3. タキン党
 

この順番に話を進めていく。

 

仏教青年会(YMBA)

ビルマにおける民族主義運動の始まりは、1906年の仏教青年会(YMBA)の結成に遡る。

結成当時のYMBAの目的は薄れつつある上座仏教の復興を目指す団体であった。

団体の活動内容も仏教教育の推進や飲酒の撲滅など仏教的なものであり、結成当時はイギリスに対しても好意的な態度を示していた。

しかし、1916年以降少しずつ団体の性格が変化し政治的な主張をし始める。

そうした背景には第一次世界大戦以後にアメリカの大統領ウィルソンが民族自決原理と民主主義に基づく国際秩序の再構築の主張をしたことにある。

民族自決原理とは、それぞれの民族は自らの政治的運命を他民族や他国家の干渉を受けずに自らの意思に基づいて決するべきであるという考え方

民族自決原理は、アジア各地の独立運動に刺激を与え、その高まりはミャンマーにまで届いたのだ。

YMBAが急速に政治化していき、政治団体と変化を遂げていく中で団体内でも亀裂を抱えることになる。

急速な政治化を嫌う保守的な年長と政治化を進めたい革新的な若手が、YMBAの活動方針をめぐって対立した。

政治化を推し進めたい若手は1920年に一斉にYMBAを脱退し、新しい団体『ビルマ人団体総評議会(GCBA)』を立ち上げた。

一方、革新派が抜けたYMBAはその後も仏教の復興を目指す団体として活動をつづけた。

 

ビルマ人団体総評議会(GCBA)

GCBAの発足はビルマ・ナショナリズムの勢いをさらに高めた。

その背景には、ビルマ人中間層が抱く不満があったと考えられている。

ビルマ人中間層が進出した商工業・行政・司法などの分野には多くのイギリス人や中国系移民、インド人などが存在し厳しい競争にさらされていた。

自分たちの国にもかかわらず、政治的・経済的権利が公平に保証されていないことに大きな不満を持ったのだ。

GCBAは都市部に本拠地を置きながらも地方に積極的に進出し、民族主義結社を設立し、それを通して自治領の要求や人頭税・戸別税の廃止などの決議を行った。

1930年代以降のGCBAの政治的エリートはイギリスが設置した植民地議会を中心にして活躍した。

ビルマ議会
1922年の知事や大臣の写真

そこでは、イギリスに対して協力的な姿勢を示しつつも、その立場を使って独立のための働きかけを行った。

換言すれば、イギリスに対して『抵抗と協力のはざま』に立って政治的活動をしたといえる。

しかし、こうしたイギリスへの妥協的な態度は同胞に「裏切り」として見られる危険性を伴った。

植民地議会選挙

初めての一般選挙は1922年11月だった。

しかし、必ずしも現代の日本のような公平な選挙制度ではなかった。

103議席のうち、21議席はイギリス政府にって選ばれ、24議席は少数民族(カレン族、インド人、ヨーロッパ人など)に分配された。

そして、残りの議席が一般選挙によって選ばれた。

GCBAは最初の選挙にはボイコットし参加しなかったため、GCBAから分裂した人々によって創設された21党が勝利した。

  

タキン党

GCBAのイギリスへの妥協的な態度に不満を持った人たちが作ったのが『タキン党』であった。

この「タキン」というのはビルマ語で「主人」という意味をもつ。

つまり、タキン党は、ビルマ人こそがビルマ国の主人であるということを指しており、強固なビルマ人意識を持っていたことがわかる。

GCBAの目標である「イギリスに妥協することで独立を獲得しよう」というを中途半端だと批判し

民衆を動員し植民地政府との直接対決こそが独立を勝ち取る方法だ

と考えた。

この過激な思想は、すぐに独立へと結びつくわけではなかったが、タキン党の思想が、その後のミャンマーに大きな影響を与える。

その一つが、社会主義である。

社会主義の考えが、ビルマで普及したきっかけは1930年の世界恐慌の影響でビルマの経済にも暗い影を落としたに起因する。

恐慌を生み出した資本主義に対するビルマの人たちの猜疑心は高まり、社会主義に関心を持つ人が増加したのだ

この社会主義への関心の高まりは戦後独立した後にも大きな影響を与える。

 

 

日本軍占領下のビルマ まとめ

以上、日本軍占領下のビルマでした。

第二次世界大戦の日本統治は戦後にも日本ーミャンマーの関係に重要な役割を果たします。

今回のブログでは収まりきらない感じなので次回のブログで詳しく紹介していきます!!!

▼▼▼▼ミャンマーの第二次世界大戦の日本との歴史をまとめたブログはこちら▼▼▼▼

【詳しく】第二次世界大戦下の日本軍とミャンマー・ビルマの歴史
第二次世界大戦下の日本軍とミャンマー・ビルマの歴史をまとめました。

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