このブログでは、太平洋戦争下で建設された泰緬鉄道の建設の歴史をご紹介します!!
死の鉄道とも呼ばれる一方で、カンチャナブリの映画『戦場にかける橋』の舞台となった鉄道が、
「なぜ建設されたのか」
を具体的に説明します!!
このブログを書くにあたって、この本を参考にしました!
現地資料などをとても緻密に紐解き、考察をしている本でとても興味深い本ですので時間に余裕がある方がいらしましたら読んでみることをお勧めします!!
・泰緬鉄道とは?
・泰緬鉄道はなぜ建設された?その理由
▼▼▼▼ミャンマーの太平洋戦争下での歴史について▼▼▼▼
【ミャンマー・歴史】日本はなぜ泰緬鉄道の建設を決めたのか?
泰緬鉄道 、別名「死の鉄道」は1942年から翌年1943年の一年にわたってタイとビルマ(ミ
ャンマー)を結んだ鉄道である。
十分な栄養や休息もない状態で東南アジアのジャングルの中を切り開き、その劣悪な労働環境と熱帯病により数万人の犠牲者が出た。
日本軍主導で建設された泰緬鉄道はタイのバーンボーン(Ban Pong)からミャンマーのタンビュザヤ(Thanbyuzayat)まで のルート430kmを繋いだ。
以下の地図は、100%正確ではないのですが、だいたいがこの経路に沿って作られました。
以下の地図は、100%正確ではないのですが、だいたいがこの経路に沿って作られました。
泰緬鉄道はなぜ建設されたのか?
この鉄道の敷設が計画されたのは、主に日本軍が根拠地 を置くタイとの間で食料や物資、武器の輸送のためである。
もっとも、タイとビルマの間に鉄道を通す計画は日本軍がビルマに侵攻する前から練られていたものであった。
タイの鉄道とビルマの鉄道の軌間は共に1mの狭間を採用していたため、それらを結ぶことで物資の輸送が活発化すると考えられていた。
アジアの鉄道を結ぼうという考えは、泰緬鉄道以前から存在し、日本・朝鮮・満州・中国の結合をさらに東南アジアに広げ、大東亜共栄圏構築のための交通網の確立を目指していた。
実際に太平洋戦争に突入し、ビルマの作戦が軌道に乗り侵攻が進んでいくと後方連絡線(補給路)をどうするかが問題になった。
海路や新たな道路の開通など、いくつかの補給路の案があったが、すでにイギリスが作成していた地図に基づいて、地形や労力の観点から見送られた。
最終的にタイのバーンボーン(Ban Pong)からミャンマーのタンビュザヤ(Thanbyuzayat)間の泰緬鉄道の敷設が決定した。
鉄道が敷設された、この経路はタイとビルマ(ミャンマー)を結ぶ最短経路であると知られ、昔から道路として多く使われていた。
スリランカにあるイギリスの海軍基地を攻撃した航空母艦がミッドウェー海戦で沈没し、インド洋での制海権を奪われることが確定したこともあり陸上輸送の必要性が強く認識された。
こうして、輸送経路確保のために、泰緬鉄道建設は是が非でも着工せざる終えなかったのである。
日本軍も補給路を泰緬鉄道の敷設だけに頼っていたわけではない。
B案として、クラ地峡横断鉄道やチェンマイからタイ北部を周りマンダレーへとつながる道路の整備も行っていた。
しかし、どれも連合軍の爆撃や建設の遅れなどで頻繁に使われることなく終戦を迎えおり、連合国の潜水艦による撃沈など最もリスクの高い海上ルートを小型船で強行突破している。
泰緬鉄道建設の経緯
Embed from Getty Images鉄道の建設において、重要な役割を果たしたのが捕虜と労務者の存在である。
- 白人捕虜
- 現地住民の労務者
捕虜は他の戦地で捕らえた兵士のことであり、労務者は主にタイの地元住民が担った。
捕虜の存在
鉄道の建設には多くの捕虜が使役されたことが分かっている。
鉄道建設に当たり、東京の大本営は資材を現地調達、建設工事人夫を現地労務者か捕虜としていたが、南方軍はイギリス、オーストラリア軍などの捕虜5万人を労働者として使用することを明らかにしている。
こうした捕虜の動員は国際条約・ジュネーブ条約に反するのではないかという懸念は戦時中にも指摘されていた。
ジュネーブ条約では、捕虜を動員し労働させることは可能であったが、作戦行動に関係なく不健康かつ危険な労働をさせることはできなかった。
日本はジュネーブ条約に批准していたわけではなかったが、戦前のイギリスからの問い合わせに対して、条約に依ると返答し、同条約を無視するわけにはいかなかった。
そのため、同条約に違反することのないように、泰緬鉄道の建設に関する資料では、「作戦」や「軍用」という言葉は決して使わず「交易」という言葉が使われていた。
しかし、戦後の軍事裁判では泰緬鉄道建設は同条約に違反したということになっている。
実際に、工事が始まると当初の予定通り、シンガポールで捕虜として囚われていた連合国兵士13万人のうち5万人程度が2200kmも離れたタイのバーンポーンに5日間かけて鉄道で運ばれた。
バーンボーンからは建設の中継点に当たるカンチャナブリーに送り込まれ、鉄道の建設に従事することになった。
労務者の存在
鉄道の敷設には現地の住民が労務者として使われたことも明らかになっている。
彼らは日給をもらいながら土木工事などの肉体労働に従事したことが分かっている。
しかし、日本と現地の住民との慣習は大きく異なり労働意欲の点で大きな差があるというのは言うまでもない。
1942年12月にバーンポーンで白人捕虜にタバコを恵んだ現地の僧侶が日本兵に殴打される事件が起こる 。
タイ人が最も崇拝する仏教の僧侶を殴打すること自体が、タイ人にとっても侮辱であったことは言うまでもない。
この問題を含めた現地住民への日本軍の横柄な態度は、友好国でもありその後同盟国となったタイの住民の日本軍への信頼の低下につながり、多くの労務者が逃亡し、労務者の募集に応じなくなった
蔓延する病気と多数の犠牲者
再度、白人捕虜の話に戻ろう。
シンガポールから運ばれてきた白人捕虜はジャングルの奥地へと運ばれ、そこで鉄道の敷設にかかわった。
彼らは早朝にキャンプを出て、夜遅くに帰ってくるという生活を休みなく続け、食事も粗末で、一日三食米で、病気にかかった者には食事はなく、「働かざる者食うべからず」という扱いをされた。
こうした劣悪な環境の中で病気に罹らないわけがなかった。
食料不足や、医薬品の欠如、東南アジア特有の熱帯気候など複数の要因により、多くの捕虜が病気に罹ったことが分かっている。
マラリヤ、赤痢、コレラ、チフスなどの伝染病などである。食事内容は主に米であり、高価な野菜は含まれていなかったためビタミンが不足していた。
夏季になると、大量の雨が降り衛生状態をさらに悪化させ、ちょっとした切り傷から菌が入り込み壊死状態になり、骨にまで影響がおよんでいる者もいた。
こうした劣悪な環境で多くの死者がでた。
捕虜は約1万人程度で動員された5万人のうち20%、命を落としたことになる。
日本軍も15000人動員されたうち、死者が約1000人 いることは付記しておかねければならない。
泰緬鉄道完成後
泰緬鉄道が総勢30万人近い労働力で1943年に完成した後、どのように使われていのかを見ていこう!!
土木工事の工期短縮のため、鉄道建設は大幅に簡略化され、完成した鉄道の輸送能力は当所の予定(3000t/日)の3分の1程度(1000t/日)であった。
毎日一列車100tで10往復させていたと計算することができる。
しかし、すぐにビルマ・タイでの日本軍の戦況が悪化し、空襲が始まると、路線や橋は航空機の爆撃の的となるため昼の輸送が困難になり、最終的には夜に一日3列車の運行で600t/日が精一杯になっていった。
輸送は主に貨物と患者であり、健康な兵士は線路に沿って歩いたという。
列車の速度も時速20kmに過ぎない程度であるため、ビルマで戦闘をしていた7個の師団を支えるためには、輸送能力が追い付いていない状況であった。
工期短縮により脱線事故が頻発し、車両が谷底に転落する 事故も度々起こった。
完成した泰緬鉄道の戦時中における使用方法
※この画像は、日本での軍事裁判の画像であり、シンガポールのではありません
敗戦によって多くの犠牲をかけ、建設 された泰緬鉄道は一部の区間を残して多くが撤去されている。
戦後、イギリス軍によって接収されタイ側の部分はタイ国に売却され、ビルマ内は撤去された。
今でも残っているのが、タイのノーンプラドゥクからターサオ(ナムトク駅)までの130kmである。
日本兵捕虜の行方
戦後、タイに抑留していた日本兵は10~13万人に及び、そのほとんど全てが日本に送り返された。
それとはまた別に、終戦後も泰緬鉄道の維持にそのまま残った日本兵も1万人程度いた。
ビルマからの日本兵の引き上げに泰緬鉄道を使うために、現地の住民による鉄道の部品の盗難を防ぐためであった。
その後、イギリスやオランダ主導でビルマ側の鉄道の取り外し作業に従事させられビルマ側の鉄道の大部分が撤去された。
戦争責任
泰緬鉄道の建設にかかわった日本兵12000名のうち、120名はシンガポールの戦争裁判所で軍事裁判を受けることになる。
起訴内容のほとんどは、連合軍捕虜と労務者への非人道的扱いや過激な拷問であった。
120名が起訴され、111人が有罪になり、32名が死刑、79名が終身・有期刑を言い渡された。
まとめ 【ミャンマー・歴史】日本軍は「泰緬鉄道」の建設をなぜ決めたのか?
以上、太平洋戦争下で建設された泰緬鉄道についてでした。
今でもタイ側の泰緬鉄道は残っており、観光地となっています。
観光地として人気に火が付いた背景については、また次のブログでまとめていこうと思います!
▼▼▼▼ミャンマーのイギリス植民地の歴史をまとめたブログはこちら▼▼▼▼
▼▼▼▼ミャンマーの太平洋戦争下での歴史について▼▼▼▼
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